赤松与根・作『爪切不動尊考』                     

この作品の著者は御座で真珠養殖業を営む。
その傍ら、文筆活動にも従事。
平成26年3月に本作品を最後に急逝。
本作品は赤松さんの遺作となった。
今回は残っていた後半部分の原稿をそのまま追加した。
尚、文中の小見出しは本文にはなかったが、
参考のためにつけさせてもらった。

(在家僧と出逢う)
 数十年来の暑気が続いていると報じられてから、八月も末になって、山野を潤す慈雨があった。日本海側の記録的な豪雨と裏腹に、二日間をしっぽりと降った。
雨後の朝、冷んやりと陽が昇った蒼天を見上げながら工場への出勤の途上、裏参道を通り過ぎてから、爪切不動尊への参拝を思い立った。急坂に登り降りする石段を避けて、境内に通じる裏参道から入った。
不動尊に足を入れるのは三年振りであろうか。病を得てから大晦日の年越詣でも、縁日の参拝も、何故か気の進まぬまま、遠慮してしまっていたのである。裏口から庫裏に入ると、行き成り読経の高声に迎えられた。早朝に奉経する者は誰であろうかと訝りながら境内に入った。
本堂に向って僧らしき男が直立して読経しているのである。らしきと書いたのは、その者はジーパンのような普段着の恰好であるが、明らかに剃髪をした僧侶のようであると、遠目にもわかったからである。滔々と聞こえて実に力強い、惚れ惚れするほどに確かな読経である。私は浄場を前にして足を止め合掌をして黙祷した。
僧は経を終えると、潔ぎよい仕草で数珠を鳴らした。深々と一礼をする。私は本堂の 前に立つ僧に寄って行く。線香が焚かれており辺り一面に立ち籠っている。
「御苦労様です。」
労いの言葉を掛けた。振り向いた僧は意外に若い顔である。
「近くの御寺さんですか。」私は聞いた。
「いえ、私は在家です。寺はもっておりません。」
「どちらから御越しですか。」
「愛知県です。」
男は折目正しい口調で応えてきた。そして、一呼吸の後、
「滝はありますか。」と聞いてきた。
「ああ、そこの落ち込みの事でしょう。滝と言える程のものではありません。」
「大雨の後は確かに一尋ちょっとの滝になりますが、昨日来の雨ではこの程度です。この上流にはそれらしきものはありません。」
「そうですか。」
流れ落ちるせせらぎに黙って見入る僧に声を掛ける。
「本堂の裏の崖に据えられた、弘法さんが刻んだと伝えられる梵字石のことを知っていますか。」 
「いえ、知りません。」
「案内しましょう。こちらへ来て下さい。」
私は本堂の裏へ先導した。壁面のそこらじゅうに置かれた、梵字を刻んだ丸い滑り石を紹介した。
「これです。古代インドのサンスクリット語でしょう。」
「そうです。古代のサンスクリット語です。」
「ところが、丸い石だけじゃないんです。ここの壁面を見て下さい。」
崖の壁面にもいくつか刻字されている。
「そうです。確かにそうです。」
それから、梵字壁の亀裂から滲み出る湧水の溜り水を指に拾って眼頭に当てた。
「この湧き水は眼病に効験あらたかだとい言われています。」
僧は私に習って瞼を濡らした。それから山上に向かう石段を見上げて、
「あの石段の上には何がありますか。」
と聞いた。
「あそこには大師堂があります。弘法さんを祀ったお堂があります。」
堂の裏にまわると、大きな撫で石があって、石を撫で、体の弱いところを撫でるのです。万病に効用があると言われていますと案内した。
「それでは行ってきます。」
僧は石段に臨んだ。
堂守と話しているところへ僧は帰ってきた。
「では、私はこれで………。」
と一礼して去った。帰り際まで律義である。私は半袖姿の男の背面を見送った。

(不動尊内の梵字石を考える)
私は、薄っすら暗い浄場の真ん中、千年の樹林が拵えた空間に佇んでいる。裏参道の入口にある籠堂と、巨大な鯉の棲む古池の上にだけぽっかり穴が開いて天空があった。そこから僅かだが境内に朝の光が落ちてくる。境内は瀑川の出現する小川を挟んだ谷間に造られている。石橋を渡ったところの本堂は椎の樹林に取り巻かれ、木末は半球状の穹窿の頂点に向って伸びている。天を突くまでに伸びた椎の梢が、この谷間に巨大な空間を造っているのである。庫裏に降りて来る急峻な石段の中腹辺りから、杉の巨木と樟の老木が背をのばして、恰もこの空間を釣り下げているような存在感さえ与えていた。空海以来千二百年もの永い年月、伐採を免れてきたのであろうか。蒼天の日光を遮断した空寂は、そんな感想さえ生じさせてくるのである。
 参詣の栞のなかに、梵字石について書かれている。それによるとこの梵字石はそもそも一石一仏の信仰のよりどころであった。元々在所(村)の辻々に祀られていたものを、ある時期本堂の裏の崖の周辺に集めて祀ったのだと言う。更に芸術的宗教的に貴重なもので、室町時代(1392年~1573年)の制作によると記されている。私はここで重大な疑問に直面する。それでは梵字石は弘法大師とは無縁のものなのか。空海は(774年~835年)と室町時代は凡そ四百年の隔たりがあるのである。この地に伝わった、幼少より教えられてきたのは、弘法さんが刻んだと言うことであった。
 ここでもう一つ、どうにも説明のつかない事物について記しておきたい。そして
考えを深くしてみる必要がある。それは、私が旅の僧に教えたもう一方の梵字刻についてである。本堂の裏、眼病の治癒に効用があると言われる湧水の周りの壁面に、いくつか刻字された梵字についてである。この崖に刻まれた梵字も、丸い滑り石に刻まれた元々村の辻々に置かれてあったものと全く同じものなのか。この壁面も室町期の制作によるもので、弘法さんとは全く無関係であると言うことなのか。栞には、芸術的価値に於いても貴重であると記されている。そもそも梵字石の芸術的価値とは如何なることなのか、それこそ冠絶の能書家であった空海の筆跡故に、成り立つことではないのか。若し私の推察した通りであるならば、空海の手になる梵字跡の原典が、室町期まで存在したことにならなければならない。
若しそうであるとしたら、想像を逞しくした私の考えはこうだ。空海自身の筆跡による原典と言えるものは、本堂裏の崖の壁一面に刻字されていた。詰まり空海は、自らが爪で刻んだと伝えられる秘仏、不動明王を鎮護させんが為に、背後の崖一面に、梵字を書いて刻字させた。村の辻々に置かれていた梵字石は、この壁面の梵字を写し取ったものではないのか。恐らくこの裏山の崖は、室町期までにほとんど崩落していたに違いない。ある時期保存と伝承の為にコピーしたと言うのはどうであろうか。
本堂背後の露出した壁面に、空海筆跡の梵字刻は確かに存在した。だがこの裏山の崖は日常的に崩壊するのである。室町期のある時、散失を恐れた当時者が持ち運びの出来る丸石に転写させたと言うのはどうだろう。近年私が記憶するだけでも崖の崩落は2回あった。最近この崖は、丸石をコンクリートで固めて修復されているが、当然昔日の面影はない。

(空海は御座に来た)
 司馬遼太郎の著した「空海の風景」のなかに、ここ御座の地に空海が立ち寄ったことは誌されていない。凡そ空海の足跡に御座と言う地名は存在しないのである。だが延暦のいつの頃か、熊野灘の風浪に突き出した小さな半島の、ほんの一撮ほどの、細々と漁を生業とする集落に空海は辿り着いていた。何処から来て志摩路に足を踏み入れたのか定かでない。伊勢路を過ぎる辺りで朝熊山の頂きを感慨深げに見上げたことだろう。そして何の躊躇もなく奥志摩に入った。先島半島の尽きる突端まで流離う理由はあったのだろうか。
後世の人々は、修験のために流浪する旅僧空海のことを、巡歴であると崇めたのである。ところがこの地方に伝承される話はそうではない。空海はこの道すがら一宿一飯の施しを求めてさ迷った。だが余りに粗末な乞食の如き風体に、門戸を開ける家はなかったと言う。
 追われるように隣村を逃れ、村境の山深い峠道を越えたと言う。最果ての小村に入った頃は日が落ちていた。夜道を歩いて一晩の宿を請う空海に、家に上げて食を出したのが山口家である。満ち足りた空海は足を伸ばして眠ったことだろう。明くる朝、旅立つ空海に「この足で遠くに去れ、戻ってくるな。」と一食を包んで送り出した。だがその日暮、空海は戻って来て宿を求めた。次の朝もまた次の日も、同じように送り出しても平然と戻ってくる。
幾日か空海は御座の山野を探索していたのである。人跡未踏の谷間に入っては、老樹の繁る深い林に入って行く。水筋の沢を探して歩いた。そしてここ一番の高い山の麓の谷間にせせらぐ瀬音を聞き着けた。おそらくは、梅雨の最中の六、七月か、台風の襲来した夏の終わりか、原生林のような奥深い林の中を流れ下る渓流に辿り着いたのである。渓谷と言う程の大きな谷川ではない。沢と呼ぶ程度の、川の両側から樹木がトンネル状に伸びて来て河原を覆っている。昼なお薄暗く日光を遮っていた。ガラ石の河原を下って行くと、やがて疎らに陽の射す、見上げれば椎の老樹が鬱蒼と森を造っている。その時、空海の耳に水の流れ落ちる瀬音が入って来た。せせらぎはここで一尋二尋を落下して滝になっていた。
短い瀑川はその先で小さな池に注いでいる。空海は「ここだ……」と呟いたことだろう。

(そして自然石に不動明王像を爪刻した)
 空海はこの谷間に小さな庵を結んだに違いない。飛泉に身を浄め、百日の護摩を焚いて祈祷したと言う。満願の日に自らの爪をもって、自然石に不動明王の御像を刻まれた。
『吾、真言密教の真髄をこの不動明王に挓せり、一心に称名する者はその苦難を救われん。仏性の尊厳を永遠に伝えんため、固く秘仏とす、開扉することなかれ』
と説いた。
 その後、爪切不動尊と称し絶対秘仏とされてきた。空海はこの後、千葉県の成田に入った。そして成田不動尊を建立されたと、栞には以上のように誌されている。
 今、私の手許に二つの小冊子がある。御座に鎮座する爪切不動尊と、創設者である空海に関わる書物である。空海を記す「ウィキペディア」の弘法大師説の一行に、柳田國男の説が出てくる。それには、北海道以外の日本各地に大師伝説は5000以上あると記されている。その理由について、中世の日本各地に勧進(仏道に帰依することをすすめ、社寺仏像などの修繕の為に金品を募ること) して廻った遊行僧、高野聖の存在をあげている。高野聖とは中世に勧進の為に高野山から諸国に出向した下級僧のことで、行商人となったり、悪僧化した者もあった。(泉鏡花の小説“高野聖”は、旅の僧が飛騨山中で遭遇した怪異を夢幻的に描いている。名文の名高い作品である。) ただこうした事の根底には空海への深い尊崇の念があるのだとも書いている。
 ではここで、絵詞などに描かれた平安の都を頭の中に描いてみるもよい。八世紀末から九世紀の初頭へ、遷都に明け暮れた不安定な国家経営の果てに、やっと落ち着いた平安京から想像するも遥かな、仏法さえも未だし、熊野灘の荒浪に没入しようとする最果ての岬、その突端に、空海が確かに実在したと言う迫真の遺物について紹介しておこう。
 空海を寄宿させた山口家に遺された、千二百年も伝わった諸物で現存しているものは、空海自身の筆跡である。山口家から聞こえて来た事実が、明白に空海の真筆であるとする根拠になるか……。私は信じた……。可成り以前、高野山からの要請を受けて、山口家は遺された文書を貸し出したと言う。ところがその後何点かの内二点だけが返却されぬまま今日に至っていると言うのである。果たしてこの事実以上に、説得力を有する空海逗留の証明は必要だろうか。私の爪切不動尊考はこのことが出発点になったと言っても過言ではない。
 今になって思えばここまで不動堂に執着し、空海との関わりに際限なく思い入ることになってしまったのは、今一つのきっかけがあったように思う。あの日碧天の朝、冷んやりとした空気に誘われるように私は、不動堂に足を入れた。あの日以来、境内の静寂に奉経を響かせた旅の僧と、護摩を焚き瀑泉に入って修験した空海とが、いや年の頃は空海の方が遥かに若年であった筈だと思いながら、私の記憶のなかで重なって霊妙な怪しさとなって留まっていた。 
 読経を終えた僧は、身分を明かした後、迷うことなく「滝はどこですか。」と聞いてきた。私は浄場から本堂に掛かる石橋の直ぐ先にある、一尋ほどの落差のある川底を示した。流れ落ちる水は僅かである。「余程の大雨の後でなければ滝になりません。普段は涸れ滝です。」と説明した。余所から参詣する人の中には、瀑川について尋ねる人がいるようだ。おごろ(もぐら)伝説(この地からもぐらを駆逐したと言う。) 同様、どこかで知識を得ているようで興味深い。おごろについて言えば今日でも近隣の百姓の人達はおごろ退治の為と言って境内の土を貰いに来ると言う。
 たしかに奔流の轟く瀑水に身を投じて修験する空海を想い描くのは、尊崇の念極まるところであろう。滝の直ぐ上に霊符堂(霊験灼な御札を与える所、護符堂とも言う。) がある。堂の裏から川筋に入って、上流まで歩いたことがあった。ガラ石や五六太石の川底を勾配を突いて、三百mほど登って行くと、稲田が現れる。谷間の幅いっぱいに造られた水田は、上流まで八、九枚、谷の西側に造られた畦道と小川に側って、一枚毎に棚田になって、谷の中腹まで続いている。真ん中辺りに母の実家の水田が二枚あった。昭和三十八年頃、伯母の逝った後の米作りを伯父とした。谷に降りるにも登るにも、此の上なく労力を費やす。不便を背負ったような稲作地であった。
 谷の西の詰めに造られた小川は、朝の一時陽が射すだけの、大人の背丈ほど深い側溝となって、下流の滝まで流れるのである。この小川の辺りで小便をする事は厳に禁じられていた。谷に入る度に注意を受けた。せせらぐ水は真夏でも冷たく、幼少時、ここに自生する芹を摘んだ記憶は、今も鮮明に残る。冷んやりした水溜りから抜き取る淡紅色の根茎は、強い香りを発した。ここの芹ほどの美味なるものは他に類いがないと、大人達が話していたのを思い出す。

(金比羅山の名は空海が関係していた?)
 この谷間は神上と呼ばれている。(古代には降神谷) 金毘羅山の東の斜面に位置して上流から登って行くと頂上に辿り着くのである。驚くなかれ金毘羅山は“ブリタニカ”に出てくる。「先志摩半島の先端近くにあり、標高99mの孤立残丘で、頂上からの眺望はすばらしく、北は英虞湾の静かな内湾を、南は熊野灘の豪壮な外海を一望できる。」とある。(リーダーズ・ダイジェスト社のホームアトラスには111メートルと記載している。)
「志摩の國御座島由来記」によると、古代には聖が岳と呼ばれたようだ。ところで金毘羅山なる名称は何時頃定められたのだろうか。私はここでも金毘羅という呼び名が気になっていた。理由は簡単である。千二百年前この山頂で護摩を焚き、山裾に草庵を結んだであろう空海と、何らかの関わりを嗅ぎ取ったからである。聖が岳を金毘羅山と呼び変えたのは空海ではないのか、推考を重ねるうちに、三橋浩氏による現代語に訳した「志摩の國御座島由来記」「御座村旧記」等を手にした。空海に関する件は、聖が岳山頂では護摩供養を執行したこと、そして降神谷いて沢瀑泉に身を投じ護摩供養を修験したこと、これらは悪魔降伏の為と誌されているだけである。
 そもそも金毘羅山と空海を結び付けたのは、空海の出生地が讃岐の金刀比羅宮(金毘羅信仰の聖地) と至近の距離にある善通寺であるからで、金毘羅とは梵語の鰐魚の意であることから、広辞苑には(仏法の守護神の一つで、鰐が神格化されて、仏教に取り入れられた) とある。ガンジス河に棲む鰐が、日本のここでは金毘羅大権現として、海上の守護神になって漁民の信仰を集めていた。讃岐の琴平にある金毘羅宮がその中心である。一方善通寺は唐より帰国した空海が、郡司であった父佐伯善通を弔う為に、生家の館跡に建立したとされている。真言宗の大本山である。

(鈴木敏雄先生の説を知る)
 金毘羅山と空海の連繋を仮想してから、最後には必ず読んでおこうと決めていた考古誌を探した。鈴木敏雄著「三重懸志摩郡御座村考古誌考」と私は実に六十年に近い歳月を経て再会したのである。鈴木先生の手によるガリ版刷りの紙面は茶色に変じていた。鈴木先生は、私が在学した越賀中学校(昭和26年~29年) で図画と音楽の教鞭をとる傍ら、志摩地方の弥生、縄文時代の遺跡の発掘や出土品の調査をしておられた。弥生、縄文時代の土器の鑑定にかけては全国的に高名を博していたようである。私は特別に図画に於いて指導を頂いたことを忘れてはいない。
 昭和二十六年一年生の私は、不動尊の裏参道の入口に位置する東の宮(後に知った旅守神社) の発掘を指示されたのである。二、三点の土器片を掘って先生に届けた。その謝礼の意味もあって、出来上がった考古誌を下されたと記憶している。
 鈴木先生は考古誌のなかで、不動院の本堂裏に集積された梵字石について下記のように誌している。
『然レドモコノ種ノ刻ニヨル梵字石ハ懸下多々他ニ類例ヲ見ザルモノナリ。御座村越賀村地方ニ見ル特種文化ト見ルベキナリ。言フマデモナク弘法大師時代ニ遡ルベキモノニハアラズシテ、余ノ考察ヲ以テスレバ、室町期程ノモノナルト必セリ。』
 急転直下、晴天の霹靂のような賢者の結論である。不動尊参詣の栞にある、室町時代の作品でと書かれているのは、鈴木先生の鑑定に因るものであろう。この考古誌のなかで先生は、梵字石の芸術的宗教的な価値観について触れてはいない。
 先生の考古誌のなかで、梵字石について、特に留意して書かれたと感じるところがある。私なりにまとめてみよう。
 『通常一字一石と称するものは、法華経、阿弥陀経その他の各字を一石に書写するものにて、幾千幾万の全躰を以て完成するものなり。ここに見るものは一字一石なるも、その一石は小形のものにしても長さ五、六寸あり、その大なるものは尺途に達す。而も之等を集成して一経なすものにはあらずして、一字を以て諸物の種子を現すものなれば、普通の経石とは其趣きを異にするものなり、即ち一石を以て一佛を表現する、言わば一個一個がそれぞれ一石佛なるを知らざるべからず。』
 私なりに要約すると、先生は先ず石の大なるを指摘して、この大きさならば一通りの経を書写すべく全身全霊を捧げるべきものにして、一字一石を集めてみたところで、果たして経石と言えるものかどうか、と言っているようだ。
 空海が入唐前から密教の知識を得て、勉学を積んでいたのは、世に知られたことのようである。
 若し梵字刻が不動堂裏の壁面にくまなく刻されていたものであれば、一字一刻が経石と言うよりも、本尊の秘仏である不動明王像を守護する目的で刻字されたのではないだろうか。空海は御座を去るときこの事を指示し壁面に、原典を残したと言うのはあまりに荒唐無稽であろうか。
                                        
(空海は降神谷で入唐を決意した)
 何事にも動じることのない尊者、これが不動明王に与えられた尊崇の敬愛語である。空海は降神谷の山林を駆け巡って瀑川を発見する。渡唐前の延暦、おそらくは800年の前後であろう。空海はここを空前の実験場としたのだ。一定の自然条件は完璧である。そこに一定の人為的条件の設定をした。そして、一定の生起を期待したのだ。(問題提起を) 瀑川で身を浄め、百日の護摩を焚いて、ひたすら読経と祈祷に没頭した。その時、頭に浮かんだ降魔の守護神、不動明王のお姿を爪刻(爪で刻むこと)絶対秘佛として封印した。「永遠に開扉することなかれ」と告げて去った。
 空海はここで、密教の奥義を求めて、試練の大実験を試みたのだ。だが、得るべきものはほとんどなかった。密教の学問的知識の乏しさを悔いたに違いない。修験の限界を悟ったのである。考えてみるに空海の密教の知識と言うものは、南都の佛寺で目にしたこと、その辺りの書物による知識に過ぎなかった。真言の奥義を修め真理の扉を開くなど、日本での開化は未だし、到底不可能な時代であると言わねばならなかった。この時、空海は渡唐しかない、大唐の都長安に渡って、密教の権威者のもとで修学するしかないと、意を決したのは、ここ御座の地ではなかったか。
 不動明王とは動かざる尊者の意であると書かれている。この頑然と構える不動院の本尊について勉強しておこう。不動明王はもともとヒンドゥー教のシバ神で、仏教にとり入れられてから大日如来の使者となった。如来の命を受けて、密教の修行者を助け、魔衆を滅ぼし、あらゆる障害を除いて修業を成就させる。その為に、右手に悪を滅ぼす剣、左手に衆生(生きとし生けるもの、一切の生物。人類や動物などのことである)を救いとる働きを象徴する羂索をもち、多くの場合青黒色の全身に火焔を背負っている。不動堅固の心を備え、力強い忿怒の姿をとる尊である。旱魃、霖雨、悪毒、災害を除き、更に兵賊怨家を降伏して財富を得るなどの願いをかなえる。この修法では、本尊の前に護摩壇を築いて、真言を唱え護摩を焚く。密教の修法では最も広く崇拝されている。
 
(遍照金剛の意味を知る)
 戦時中冬日の下で身を竦めたような暮らし。8月15日を境に後先の十年。幼少の記憶のなかに、忘れることのできない部分を占めるのは、母の実家の祖母とのさまざまな関わりである。祖母は一等海女で稼いだ。嫁ぎ先の身代を一代で築いた剛胆な人だと聞かされてきた。私が小学校を卒業する頃には八十七、八歳で、少々耄碌した一面もあった。
 思い返すも煩わしい。とり分けて生活物資の乏しい時代に、祖母との接点の多くがあった。私達一族の日常生活上の履物は、祖母の手による藁草履に依存していた。原料の藁を打つのは、姉達から引き継いだ私の仕事である。学校から帰ってくると「ばあさんが待っている。」と使いがある。納屋の中には、藁草履を編む祖母が待っていた。私は藁を打ち終えると、翌日の翌日の草履一足をもらって「ばあさん飴捩じてたもれ。」と褒美の芋飴を要求した。
祖母は勝手の奥の納戸から、琥珀色に固まった芋飴を二本の箸で捩じてくれた。私がゆっくりと味わっていると、「早よう食うて箸は置いていけ。」と背中に一言がとんできた。
 戦後の砂糖不足の時代、甘藷(さつまいも)の澱粉質を煮詰めて作る芋飴は、当時の貴重な栄養源であった。病後の体力回復、調味料の糖質として使用された。
 祖母は機嫌の良い時ばかりではない。虫の居所の悪い時もある。藁打ちの手伝いのない日は厳しかった。そんなとき祖母は決まって「欲しかったら、へんじょうこんごうせえ。」と言うのである。ここ御座では「へんじょうこんごう。」と言う一語は、極く日常的に使われていた。家族のなかでも友人との間でも普通に使用されていた。
 さて、どのように使われたのか、語意はさして難しいものではない。「そんなに欲しいんなら、土下座して手を合わせ、何遍も頭を下げて頼んでみよ。」と言っているのである。
「へんじょうこんごう。」が空海の法号である「遍照金剛」であろう事は言を俟たないところである。このような形でいつ頃から使われ出したのか。弘法大師に深く関わる、ここ御座の地に限ってのことか、そうだとすれば実際この一文を書こうとする私の、一番の関心事となってしまったのも確かである。

(二つの珍事に出逢う)
 後半を書くにあたって勉強を始めた十月も後半になって、二つの椿事があった。一つは事件と言えるほどのものではない。再読を予定していた司馬遼太郎の「空海の風景」下巻。母が遺したこの書物を最初に読破したのは、今年の三月頃か、工場の昼の休憩時間である。以来、下巻は私の手許から忽然と消えた。杳(よう)杳として行方は知れず数ケ月が過ぎる。工場内、持ち帰った筈の応接間。思案の限り探したが、結局諦めることにした。「へんじょうこんごう」なる一語とともに頻りに祖母が現れたのもこの頃である。母の生家での戦後の生活が蘇った。何十年も忘れ果てた些細なこと、そうだったんだと、あの時代ならではの存念とでも言うべきだろうか、今になってみると意外に根深いこだわりとなって残っていることにも気付いてしまった。
 祖母からすれば私は言わば外孫である。祖母、母、私と微妙な人間関係、様々な場所での言動というのもいくつか蘇ってくる。確かに当時の空気の感触自体、今をもって気付いたと言うのではなかったようにも思う。幼少の私は些かの随意をもって反発していたことを、潜在意識のなかに抱え込んで隠してしまっていたに違いないのだ。
 後の一つは、不動院の堂守をしていた山口家の跡取りの話である。二年前の早朝裏参道の入口に座って私を呼び止めた。問わず語りに彼の口から出たのは、山口家に伝承された1200年前の弘法さんの足跡とて手跡についてであった。私は初めて聞く内容ではなかったが、前出の通り日暮れに托鉢する身すぼらしい僧に食を供し、一宿を与えたこと。翌朝帰ってくるなと告げて家を出したが、夕食の頃には平然と家に戻った。その後幾日も続いた。それが弘法さんであり、降神谷の麓のあたりに草庵を造っていたと言うのである。弘法さんは石を持て追わるるごとく隣村を逃れたと話したこと、如何にもその身形は乞食同然であったと言う。高野山金剛峯寺のことは前出のとおりである。
 私が後半を書き出した十月の始め、この山口の息子に異変があった。突然病死したのである。唯早い旅立ちに驚くばかりである。
 不可思議は更に続いた。それから四、五日後であったか。ある朝、「空海の風景」下巻は然として私の目前に現れた。応接間の洋服ダンスの上に、半分露出させて表装の朱赤の帯が、何気無く上を向いた私に飛び込んできたのである。

(大日如来の灌頂名こそ遍照金剛だった)
 遍照金剛とは無論空海の灌頂号(かんじょうごう)である。灌頂とは頭頂に水を注ぎ、僧が一定の地位に達したことを認める儀式である。密教では教えの秘奥を伝える作法であると書かれている。空海は留学僧として804年(延暦28年)12月23日に入唐。翌805年の5月32歳の時に、当時中国密教の第七祖と言われるほどに権威者であった青龍寺の恵果(けいか又はえか)和尚に師事した。その年の8月10日早くも伝法阿闍梨位の灌頂を受けた。(密教では師範たるべき高徳の僧の称) その時「遍照金剛」の遍照とは、法身の光明があまねく世界を照らすことにある。金剛とは、原語は異説もあるがダイヤモンドの意であるとも言われ、その金剛石のように極めて堅固で永遠に不壊(壊れることがない)であると記されている。(ここで言う法身とは、仏教を宇宙の理法としてとらえたとき、仏陀は真理そのものであり、その真理は仏陀の身体であるとする考え。) (留学生、隋や唐、新羅などに派遣され、十数年から三十年以上の長期滞在をして学問や仏教を学んだ。短期の還学僧と区別した。最澄はこれに当たる。)
 ところで驚くなかれ遍照金剛は大日如来の灌頂名でもある。そこで大日如来について勉強することにした。従来からの学者の説によると、元々は「華厳教」の仏である。東大寺大仏のような廬舎那仏又は毘盧遮那仏が、更に発展して、密教の大日如来「摩訶毘盧遮那仏」になったと一般に考えられている。大日如来は世界を遍く照らす者を現し、宇宙の中心であり同時に全体でもある。従がって曼荼羅の中尊(中心)として描かれている。真言密教では宇宙の実想を仏格化した教主で、その根本仏である。一言にすれば、密教上の教主として釈尊が進展したものであると考えればよい。
 そもそも如来とは、悟りを開き衆生を救う者、すなわち仏のことを言う。そのルーツは歴史的事実としての釈迦(仏陀)と同義語であり、大乗仏教の展開の中でさまざまな仏が出現する。如来、菩薩、明王、天、これを一括して仏と呼ぶが、本当の意味での仏は如来だけであると書かれている。
 真言密教の教えのなかで釈尊が更に進化して、大宇宙の根本格となった大日如来の、それでは如来をつくり出した密教とは如何なる教えなのか、次のように書かれている。唯一真実の教法である。深遠にして秘奥を伝え、凡夫には伺い得ない、悟りの境地に達した者でなければわからない、秘密の教えである。それでいて一方にこんな記述もある。密教とは現世肯定的で情念を無視しない生の哲学であると。思想的、美術的にも曼荼羅や法具にも革新的な変化が現れた。現在はチベット周辺と日本にだけ残っている。

(密教を調べる)
 では次に密教はいつ頃どこで起こったのかについて調べてみよう。起元前頃のインド。400年前に釈尊が説いた仏教に改革の嵐が起こった。従来の仏教は、出家者中心自己中心に重きを置くとした考え方であり、あくまでも釈迦の教えにこだわる保守派、これを小乗仏教として批判した。自分ひとりの悟りでなく、多くの人々を理想世界である彼岸に運ぶ、大きなすぐれた乗物であるとした大乗仏教。古来の仏陀の教えに新解釈をもたらした。紀元前のインドに起こった革新運動のその極みに出現したのが密教であると言われている。
 空海は15歳で讃岐を離れ、上洛して大学寮に入り、官吏としての修学をしていた。青年期を前にして仏教に転じた。24歳の時には「三教指帰(さんごうしいき)」なる物語を著している。この前後から山林を修験する遊行僧となって各地を放浪した。既に仏教の優越性には自信を深めていたし、平城京に出入りするうち奈良仏教を学んでいた。然しここ南都で(平城京)、空海に授けられた探究者としての資質が満足しなかったのも確かである。堕落しきった南都仏教に幻滅した空海が、密教に未来を見出そうとして生来の探求者としての天分が目覚めたのも、ここ南都に違いなかった。
 ここで奈良仏教(南都仏教)について勉強しておこう。飛鳥時代から奈良時代の仏教は、阿弥陀如来の信仰が中心であった。ことに天平期を中心とする奈良朝の仏教は、言わば二重構造と言う官権と結びついた、国家護持を目指した豪族層を中心とした視写追悼の為のものであり、一部の高僧階級の特権が支配していた。
 律令体制下の不自由さのなかで、民衆救済に活動した僧もいたが、一般民衆のしんこうとはほど遠い存在であった。やがて平安の中期になると、自らの往生を願うと言う信仰心への著しい進化があった。740年頃から南都では華厳宗の展開普及が起きる。聖武天皇の発願による大仏造営が始まった。752年の開眼供養の後、都は賑わいを見せた。その後、桓武天皇はさもこの平城京の忘却が目的であったかのように、長岡京への遷都(784年)を断行する。更に十年後(794年)平安遷都と、廻るましく時代は変転した。ここら辺りから南都仏教の権威は失墜するのである。この頃、桓武天皇の寵遇を背景にした、国家護持僧の立場にある天台延暦寺の最澄と、決定的な対立関係をつくってしまった。
..............(ここで原稿終わる)

管理者よりの附記
 (本作品は執筆者の赤松さんより本サイトにUPの了解を得、前半部分の完成原稿も頂いたのですが、後半部分については、執筆者の急逝のため、本人の未推敲のままなっていた原稿を管理者の独断で使わせて頂いた。執筆者本人の思いとは違ったものになったとしたならば、その責任は管理者にある。あえてUPしたのも、赤松さんが本作品の最後のところで使いたかったであろう以下の別稿があったからで、それを読者にお伝えすることが執筆者の意に叶うのではないかと勝手に判断させて頂いたからである。)

空海ふたたび志摩路へ
「急ぎなさい。陽が落ちてしまうと、あの浦海は見えなくなるんだ。」
「違うぞ。頂きはこちらの林だ。」
あれはいつ頃だったか……なんとも遠い昔日になってしまった。延暦の18年か20年か(799年~801年)。二十数年も昔、そんなに経っていたのか。頂上の大木林を目眼に、空海には自身でも不思議な程、昨日のように鮮明によみがえってくるのである。雑木林を抜けると、大樹の森のなかに深く分け入った。身を乗り出して望む枝梢の先に垣間見る島々の突端に、今しも大海に沈み込もうとする御座の崎を探し当てた。
「御師匠様。いかがなさいましたか。」駆け寄ったのは泰範ではなかったろうか。空海の頬に一筋の涙痕があったようにも見えた。
「泰範。あれだ、あの崎の先端にぽつんとみえるのが御座の集落のあるところだよ。」空海は思い入れの強い手付きで指差した。
一行は明星堂へ急いだ。日暮の山林は月光さえも遮って、闇の山道が続いていた。空海は夜道を辿りながら延暦の日の慌しい帰路を思い出していた。確かに苦難続きの修験道だった。明星堂で読経を終えると、その足で暗い山道を降りた。志摩路に足を入れた頃には暖かい陽差しを浴びた。
そこで空海は今一度朝熊山獄の頂きを振り返った。昨夜から頭を離れないのは、浦海の最果に浮かんだ小島である。何故か土佐の室戸の修験場の紺碧の空と海を思い出させる。あの日空海は不思議な力で志摩路を急ぐ自身を感じていた。


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